佐久間艇長の遺書

佐久間艇長の遺書

佐久間 勉(さくま・つとむ)
海軍軍人。1879年福井県生まれ。1901年海軍兵学校卒業。1910年、第6号潜水艇の艇長として、山口県新湊沖で潜航訓練中、艇が故障し沈没、13 名の艇員とともに殉職。死の直前に書かれた遺書の沈着冷静さは、全艇員がその持ち場についたまま絶命していたことと相まって、日本のみならず世界中の感動を呼んだ。享年30歳。



「国際人」


私の描く「国際人」のイメージは、何ヶ国語をも流暢に操り、
来週はアメリカ、次の週はヨーロッパ、また次の週にはインド、
みたいに世界を飛び回って働いている、人間だった。
そういう方に対しての憧れはある。
でも、なんとなくしっくりこなかった。
何ヶ国語もの言語を操り、世界を飛び回って仕事をしてる人。
かっこいい。うん、かっこいいね。
でも、そうなりたいの?
って自問すると、決してイエスとは答えられなかった。
うまく説明できないけど、「国際人」に対するイメージが、
自分の中で現実離れしていいて、
深いところまで触れられていなかったんだと思う。

先日、この本を読みました。
明治38年、日本にも潜水艦が実戦整備される。
明治43年、ひとつの事件が起こる。
広島湾で訓練中の潜水艦が一隻、沈没してしまったのだ。
そのとき、その潜水艦の艇長を勤めていたのが佐久間氏である。
彼は部下13人とともに、一生懸命、ミズを手動でくみ出すが、
その甲斐も無く、潜水艦は沈んでしまう。
そこで、もぅダメだと思った佐久間艇長は、遺書を書き留める。
遺書の内容は、国の潜水艦を沈めてしまったお詫び、
13人の部下の命を守れなかったお詫び、
そして部下の遺族が苦しむことのないように願い、
今後二度とこのような事件が起きないように、
沈没前後の様子を鮮明に書き留め、
自分の恩師や上官にお礼を述べ、最後に日時を書きしるす。
当時、このような潜水艦沈没事故はまれなことではなく、
ヨーロッパなどでも起こっていた。
それらの事故により、後日見つかった潜水艦は、
ドアをあけると、その入り口に幾人もが重なり合い、
いかにもパニック状態で亡くなっていたらしい。
海の中だとわかっていながらも、出口を求め、
我先にとドアや窓のそばに近寄り、亡くなっていた。
それらの事件と比べると、佐久間艇長率いる潜水艦は、
操縦しはハンドルを握った状態で亡くなり、
レバーを操るものは、レバーを握ったまま亡くなっていた。
死を目前にして、それでもなおかつ自分の職務を全うしたのである。

佐久間艇長も、死を目前にしても、冷静にその現状を分析し、
遺書に書きとめたのである。

この事件は、世界中に知れ渡り、
今でもヨーロッパなどの海軍の入学式のような場では
佐久間艇長の話しがされるらしい。

「尊敬する人」に佐久間艇長の名前があがることも多い。
日本に比べて、欧米での方が知名度が高いくらいである。

私は、この話を聞いて、
あぁ、国際人ってこういう人なんだな、と思った。

もちろん、私が最初にあげた、
何ヶ国語をも操り、世界を飛び回っている人ももちろん国際人。

でも、自分の中ですんなりフィットした国際人は、
佐久間艇長のような人物だった。

彼は英語が話せるわけでもない。
海外に多く行っているわけでもない。
しかし、立派な「国際人」である。
国と国との間の価値観の違いは大きい。
しかし、その価値観の違いを乗り越え、また時代も乗り越えて、
今もなお尊敬され続けている佐久間艇長を、
もっと多くの日本人に知ってもらいたいと思う。